東京六大学野球を応援する公式Webコンテンツ TOKYOROCKS!2015

はじめまして。

環境情報学部1年の大平亮です。

神奈川県鎌倉学園高校出身、ポジションは内野手です。

おおひらとおると読みます。

 

高校時代は男子校で、青春のすべてを野球に捧げたつもりでしたが、最後の夏の大会では不完全燃焼に終わってしまい、野球を捨てきることができませんでした。そこで、どのみち勉強するなら上を目指そうと、また幼いころから憧れていたKEIOのユニフォームを着て野球がしたいと思い、一年間の浪人生活を経て、この野球部に入部することができました。

 

今回は「俺の○○!」ということで、僕の過酷な受験生活について少しお話しさせていただきます。

22.俺のゆかいな仲間たち 大平

当初、僕が受験勉強を始めたときは偏差値が35でした。そうです、ビリギャルの世界です(笑)映画をご覧になった方はご存知だと思いますが、毎日枕を顔に当てて発狂していました。成績は一向に伸びず、もう一生受からないのでは、という不安とも毎日戦っていました。

 

しかし、意識の高い仲間に支えられ、なんとか受験という壁を乗り越えることができました。合格発表の日、“合格”という文字を見た瞬間、飛び上がりました。感謝です。その気持ちしかありません。まだまだ語りたいことはたくさんありますが、長くなってしまうのでこのくらいにしておきます。

 

高校野球を引退してから一年半は勉強に集中してきたので、これからは再び野球に打ち込みたいと思います。今、慶應義塾大学で野球をできるということに感謝し、初心を忘れず練習に励みたいと思います。

どうぞよろしくお願いいたします。

 

(1年・内野手・大平亮/鎌倉学園高校出身)

はじめまして。

商学部1年の泉名翔大郎です。

慶應志木高校の出身で、捕手をやっています。

 

高校のときに早慶戦を観に行き、満員の神宮球場でプレーをする先輩方に憧れ、大学でも野球をやろうと決めました。

 

僕は高2の時に内野手から捕手になりました。

捕手としての経験はまだ少ないですが、今まで色々なポジションをやってきた経験が、捕手としてフィールドを見るときにとても活きています。

僕の目標は「周りから信頼される捕手」になることなので、選手として、人間として成長していきたいと思います。

 

最後に、僕は今まで県大会以上の大会で優勝したことがないので、大学ではまず六大学で優勝し、そして日本一になって優勝の喜びを味わいたいです。特に優勝の瞬間にマウンドで歓喜の輪をつくる一員になりたいです!

4年間頑張りますので応援よろしくお願いします!

 

 

16.おいしい深谷ネギ 泉名

 

「俺の地元」

 

僕の地元は埼玉県の深谷市というところです。

深谷市は深谷ねぎが有名です。深谷ねぎの特徴は、繊維のきめが細かく柔らかいこと、糖度が高く甘いこと、白根の部分が長く、皮を剥くと白く美しいことです。とても美味しいので食べてみてください!

 

写真を見てわかるように田舎なので高校のチームメイトからはバカにされていました。なぜかネギという言葉が悪口になっていました。笑

でも、正直このキャラのおかげでちょっと人気になれたと思うので、地元の悪口を言われて落ち込んでいる風を出しつつ、ちょっとおいしいキャラだなと思っていました。笑

深谷で育つことができて本当に良かったです!

 

(1年・捕手・泉名翔大郎/慶應志木高校出身)

はじめまして。

商学部1年の吉田健一郎と申します。

出身校は慶應湘南藤沢高校です。ポジションは内野手です。

 

私は慶應湘南藤沢中学に入ってから、今まで6年間にわたり慶應のユニフォームに袖を通してきました。しかし大学の体育会野球部は私にとっては実力的に無縁の場所であろうという思いから、大学まで野球を続けようと考えたことはほとんどありませんでした。ですが高3の夏の大会敗戦後、ここで野球をやめてしまっていいのかという思い、また野球が一番好きだという思いを感じ、伝統ある慶應義塾体育会野球部に入部することに決めました。

 

現在は、様々な面でレベルの高い人たちと接することができて、非常に充実した日々を送っています。この素晴らしい環境で野球ができることに感謝し、4年間頑張っていきます。

 

応援をどうぞよろしくお願い致します!

 

28.俺の母校 吉田健一郎

 

「俺の母校!」

これは、母校慶應湘南藤沢高校のグラウンドの写真です。このグラウンドは通常時の練習は他の部と兼用で、二分割あるいは三分割して利用しています。そのためフリーバッティングは朝練でしかできず、日によってはショートの定位置まで確保できない日もあります。そんなグラウンド環境のなか、母校は今年史上初の夏の大会でのシード権を獲得しました。

 

後輩たちの活躍が僕の励みになっています。後輩たちに負けず頑張っていきます。

 

(1年・内野手・吉田健一郎/慶應湘南藤沢高校出身)

はじめまして。

経済学部1年の太田力です。

ポジションはピッチャーです。東京都桐朋高校出身です。

 

僕は六大学というレベルの高い環境で野球がしたく、慶應義塾大学を受験し無事合格することができました。

 

桐朋高校では自分たちで考え、動くことを求められ野球をしてきました。高校時代に身につけた自分で考える力を存分に発揮し、練習に励みたいと思います。六大学野球で桐朋といえば、東大をイメージする人が多いかもしれません。しかし、いつか僕が神宮の舞台に立ち、桐朋の野球部出身が慶應でも活躍できる姿を見せたいと思います。

 

また、僕は身長168cmで、ピッチャーとしてはもちろん、野球選手としてもかなり小柄です。体が小さくてもピッチャーとして大学でやっていけるということを自分自身で証明し、この身長を感じさせないくらい神宮のマウンドで躍動できるように頑張っていきたいと思います。

 

今まで支えてくれた方々への感謝の気持ちを忘れずに、神宮で活躍し恩返しができるよう頑張ります。応援よろしくお願いします。

 

 

3.俺の部屋からの景色 太田

「俺の部屋からの景色」

 

僕の実家の最寄り駅は幡ヶ谷です。幡ヶ谷は京王新線で新宿から二つ目の駅です。

僕は先輩方から田舎顔とよく言われますが、実は渋谷区民です。

僕の部屋の窓からは、初台のオペラシティや新宿の東京都庁が見えます。

 

今は実家から通っているのでオフの日には自転車で新宿、渋谷に出没します。

こうみえて都会民です。

よろしくお願いします。

 

(1年・投手・太田力/桐朋高校出身)

はじめまして。

総合政策学部1年の植田清太です。

慶應義塾高等学校出身、ポジションは内野手です。

 

私が慶應に入学するきっかけになったのは、両親の勧めというのもありましたが、私の従兄弟の植田忠尚さん(H25卒OB)の影響が一番強かったです。

私が中学2年の時、植田忠尚さんは慶應義塾高等学校3年で野球部主将を務めており、春には甲子園出場を果たしました。私はその甲子園での試合を見た時、衝撃を受けました。

圧倒的な応援人数、アルプスの団結力、若き血、ダッシュKEIO、他の高校とは比べものにならない大声援に心を動かされたあの時の事を、私は今でもはっきりと覚えています。

これがきっかけとなり「慶應で野球がやりたい」という気持ちが芽生えました。

 

少し地元の話をすると、私は大阪出身で中学は奈良の生駒ボーイズクラブに所属していました。中学3年時には主将を務めさせていただき、最後の夏の大会では全国制覇を成し遂げる事が出来ました。

 

その中学の功績もあり、私は慶應義塾高等学校に推薦入学する事が出来ました。

私を快く慶應に入学させてくれた両親には本当に頭が上がりません。

その両親や今まで私に携わってきた方々に恩返しするために、甲子園に出場し活躍すると決意しましたが、それは成し遂げられませんでした。

 

高校では恩返しする事が出来なかったので、大学では必ず恩返しをする、その強い気持ちを持ち続け今は練習に励んでいます。

 

両親をはじめ、たくさんの方々の支えがあって今ここで野球ができているという事を忘れず、感謝の気持ちを持ち続け日々努力します。そして必ず神宮という最高の舞台で活躍し、両親、支えて下さった方々に喜んでもらえるよう頑張ります。

応援よろしくお願いします!

 

20.全国制覇達成!! 植田

「俺の中学時代」

僕は大阪府大東市出身なのですが、中学は奈良の生駒ボーイズクラブというチームに所属していました。

この3年間は僕の人生においてとても大事な3年間でした。ほぼ毎日練習で死ぬほど練習していて、とても辛くて苦しかったです。

しかし負けずにくらいつき、努力し練習しました。

 

その練習の成果が出たのか、中学3年の最後の夏の大会で見事全国制覇を成し遂げる事ができました。最高でした!「練習は裏切らない」とはこの事だと思いました。僕はこのチームで最高の指導者と最高の仲間に巡り会え、そして優勝出来たことに誇りを持っています。

この3年間があるからこそ今の自分があります。

生駒ボーイズクラブで野球ができて良かったです。

 

(1年・内野手・植田清太/慶應義塾高校出身)

はじめまして。

三重県立津西高校出身、商学部1年の前田和真です。

ポジションはピッチャーをやっています。

 

僕は小学校1年生から野球を始めました。

きっかけは、保育園からの幼なじみに誘われたからです。

もしあの時、野球に誘われていなかったら、僕はサッカーをしてもっと違う道に進んでいたと思います。

 

また、僕が慶應義塾大学を目指し始めたのは、中学3年生です。

高校の進路で迷っている時に、当時の監督に、「大学まで野球を続けたらどうや」と言ってもらいました。

そこで秋の早慶戦を観戦し、慶應のプレーや応援、また、早慶戦という独特の雰囲気に感動し、慶應で野球がしたいと強く思いました。

それから野球にしっかり取り組み、慶應義塾大学も狙える津西高校に進学し、無事指定校推薦で合格することができました。

 

大学に入学して、3ヶ月が経ちました。
中学生の時からの憧れである、慶應義塾大学に入学し、野球と勉学の文武両道に励むことができ、とても充実した日々を過ごせています。
さらに、素晴らしい先輩や同期にも恵まれて、本当に幸せに感じます。
しかし、入学しただけで満足していてはいけません。慶應のユニフォームを着て早慶戦でプレーするために慶應に入学したのです。

 

この4年間、全力で取り組み、小中高の監督、コーチ、津西高校の仲間、今までずっと見守ってくれた両親に最高の恩返しができるよう、日々精進していきます。
応援よろしくお願いします。

 

 

11.俺の”バカンス” 前田

「俺の”バカンス”」

 

皆さんは今年の夏はどのようにお過ごしになるのでしょうか。
夏といえば、花火や祭り、海などイベントがたくさんあります。僕は、今年の夏に伊豆の海に行く予定です。
青空のもと一日中、海を満喫し、全身を真っ黒に焼いてきます!
海が似合う男になれるよう頑張ります!
みなさんも素晴らしい夏をお過ごし下さい!!

(1年・投手・前田和真/津西高校出身)

どうも、慶應義塾大学商学部1年山本燦です。

慶應義塾高校出身で、ポジションは外野手です。

 

この度は、野球を始めた時から現在に至るまでを簡単に自己紹介したいと思います。

 

兄が野球をやっていた影響もあり、幼稚園の年長の頃には自然と野球を始めていました。

小学校の野球チームでも何となく6年間プレーし、中学になり東京和泉(いずみ)シニアに入りました。横浜泉シニアとは違い無名のチームです笑

しかし、その和泉シニアに入ったことで幸運が幸運を呼び、シニアの日本代表であるUSSSAに選出されることができました。

 

高校にはその様な実績を残せたので慶應義塾高校に入学でき、現在に至ります。無名のチームと言いましたが、東京和泉シニアにはとても感謝しています。

高校ではあまり奮闘させてもらえなかったので、神宮でプレーして見返してやります。

 

高校では甲子園優勝を目指して頑張っていたのですが、それが叶わなくなってしまった今、大学日本一を目指し頑張っていきたいと思います。応援よろしくお願いします。

 

「俺の◯◯」

37.俺を熱くさせるもの 山本燦

どんなことを書けばいいのかいまいち良く分からないので、僕の大好きなボウリングの話でもしたいと思います。僕は今までずっとストレート(真っ直ぐのボール)しか投げていませんでした。というか、投げられませんでした。そのため、あまり安定せず、スコアもあまり伸びませんでした。

しかし、ある日高校の友達と行ったボウリングで、友達にカーブの投げ方を伝授してもらい、ボウリングに対する見方が180°いや、270°変わりました。

 

自分のカーブの曲がり、回転、そのレーンのコンディション(滑り具合)、ボールの重さ。それらを計算しつくして初めてハイスコアが生まれる。ストレート時代の僕はそんなこと考えもしませんでした。

ボールを転がして10本のピンを倒す遊び、いやスポーツにこれほどの奥深さがあることに感銘を受けたのを今でも覚えています。

 

これを書いていると今すぐにでもボウリングに行きたくなってしまう深夜1時15分なので、この辺で終わりたいと思います。

くだらない話にお付き合いしていただき有難うございました!

 

(1年・外野手・山本燦/慶應義塾高校出身)

はじめまして。

文学部1年の多賀雅也です。

埼玉県の本庄第一高等学校出身、ポジションは内野手です。

 

私は小学5年から中学2年の夏までの間イタリアに住んでいた、いわゆる帰国子女です。野球は小学2年の冬に始めましたが、イタリア在住期間は野球をやらず、日本に帰国後また野球を始めました。このことをチームメイトや先輩に言うと、野球をやっていなかったことよりもサッカーをやらなかったことに驚かれます。ちなみに、サッカーは幼稚園の頃やっていましたが、サッカーボールを失くして親に怒られてしまった記憶しかありません……

 

正直なところ、イタリアに行っていて野球ができなかった期間を恨めしく思うことも多々ありました。しかし、英語とイタリア語を喋れるようになったこともそうですが、イタリアで出会った友人が慶應を目指すきっかけとなったことを考えると、イタリアに行っていたからこそ今の自分があるのだと心の底から思えます。

 

また慶應を目指す中で、英語以外は模試で偏差値30を下回るような科目もあった私を、見捨てる事なく可能性を信じて合格までの道程を最後までサポートしてくださった方々や、受験期には切磋琢磨し合い、今では「たがまさ!」と言って応援してくれる多くの友人達に出会えました。一生大切にしていきたいと思える友人達に出会えたのも、やはり、イタリアに行っていたからこそです。

 

高校時代よりも更に多くの人が私を応援してくれている今、私が掲げる目標は「神宮で活躍する!」です。そして、早稲田大学出身の(実はとっっっっても生徒思いで優しいが、高3の夏の大会を迎えるまではこの世で1番と言っても過言ではないくらい怖い)高校時代の監督には、早慶戦の舞台で慶應を応援していただくとともに、ペルー遠征で肩を組みながら披露してくださったあの美声で「紺碧の空」ではなく「若き血」を歌っていただきたいと思います!

 

応援よろしくお願いいたします!!

 

25.あ〜〜〜ん♡ 多賀

 

「俺の相棒」

私が紹介するのは、泉名翔大郎(写真左・1年・捕手/慶應志木高校出身)です。

 

彼は神宮でプレーする選手達を支える裏方として、勝利に貢献しました。秋のリーグ戦ではその技術を更に向上させて、春はあと1歩のところで逃してしまった優勝に貢献してくれるでしょう。

 

彼の名前を私の携帯で入力する際は「いずみ なまえ」と打って「前」を削除しなくてはいけないため「大変だな…」と感じる時もありますが、先輩からも「漢気のある誠実でいいやつだ」と言われるほど顔も性格もイケメンです!

 

以上、「俺の◯◯」でした!

 

(1年・内野手・多賀雅也/本庄一高校出身)

はじめまして。

環境情報学部1年の田中裕貴です。

芝高校出身でポジションはピッチャーです。

 

僕が大学でも野球を続けようと決めたのは、高校野球を引退してからです。

正直、高校野球をやっている時は、野球は高校までで終わりで、大学に入ったら自分がやったことのない新しいことをやってみようと考えていました。

しかし、いざ引退して受験勉強に追われる日々が始まると、毎日が物足りなく、自分から野球をとったら何も残らないことに気がつきました。

 

現役時代はあまり練習が好きではなかったのに、引退してしまうと野球がしたくて仕方がありませんでした。そんな時に、高校の野球部の監督に六大学野球を見に行ってはどうか、と言われました。そして見に行った秋の早慶戦。

これだけの大観衆の中で野球ができるのかと感激し、大学で野球を続けることを決めました。

 

高校時代の約6倍の部員数の中での熾烈なメンバー争いは、毎日が新鮮でとても充実しています。今までお世話になった方々にプレーで恩返しできるよう、精一杯頑張ります。

応援よろしくお願いいたします。

 

8.俺のマウンド 田中

「俺のマウンド」

 

僕の卒業した芝高校は、東京タワーの真下にあります。

都会のど真ん中にあるため、広い土地はなく、グラウンドは土ではなく陸上のタータンのようなゴムでできています。

そのためピッチング練習の際は跳び箱板のようなお手製の木の板を持ってきてその上から投げていました。

慶大野球部に入り、土のマウンドで投げられることはとても嬉しいのですが、木のマウンドがとても懐かしいです。

 

(1年・投手・田中裕貴/芝高校出身)

はじめまして。

法学部法律学科1年の渡辺悠太郎です。

埼玉県の慶應志木高校の出身で、ポジションは内野手です。

 

僕は小学校1年生から野球を続けてきているのですが、これまで強豪といわれるような強いチームの中では野球をしてきませんでした。しかし、この慶應義塾大学の野球部は、今まで僕が経験してきた野球チームの中で最も人数が多く、僕よりも能力の高い選手がたくさんいます。その中で試合に出ることは、とても難しいことだと思います。

 

これからの4年間で、高いレベルにもまれ、強く成長し、神宮の舞台に立てるような選手へと変わっていきたいと思います。下から這い上がる、下剋上魂で頑張ります。

 

 

30.俺の心のよりどころ 渡辺悠太郎

 

「俺の心のよりどころ」

 

このボールは、志木高野球部の特に仲のいい2人から、大学野球部に入る前日に「頑張れよ」と渡されたボールです。

つらくなった時や、妥協しそうになった時、このボールを見て僕にも期待してくれる人がいるのだと、勇気づけてもらっています。

恩返しできるように、必ず結果を残します!

 

(1年・内野手・渡辺悠太郎/慶應志木高校出身)